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三国志の武将紹介最強ブログ
2025/05/10 [23:07:07] (Sat)
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2008/04/14 [21:47:59] (Mon)

姓:趙
名:雲
字:子龍
生没年(?-)
出身地:冀州常山郡真定県
親:
子:趙統趙広

公孫[王贊]の部下だったが、公孫[王贊]配下の田楷袁紹と戦い、救援に劉備 が向かう際に趙雲は劉備に随行した。そのまま趙雲は劉備の主騎(親衛隊長?) となった。長坂で劉備が曹操に敗れて逃走すると、趙雲は張飛諸葛亮と共に数十騎で劉備を守って逃げた。阿斗(後の劉禅)とその母である 甘夫人を保護し、危機から守った。牙門将軍に昇進した。劉備が蜀に入った際、趙雲は荊州に留まった。

劉備が葭萌関を越えて劉璋との戦いを始めると、諸葛亮は張飛と趙雲を率いて長江を遡り、諸郡県を平定した。江州で諸葛亮は趙雲に別の川を通って成都で落ち合うように命じた。成都が平定されると翊軍将軍となり、後に鎮東将軍まで昇進した。 227年、諸葛亮に従って漢中に入り、翌年斜谷道を通ると宣伝しつつ、[示β]山に向かった。趙雲と[登β]芝はおとりの弱兵を率いて斜谷で曹真 の大軍と戦って敗れたが、趙雲は守りを固めて大敗には至らなかった。鎮軍将軍に降格となった。 229年に死去、261年に順平侯の諡号を贈られた。『季漢輔臣賛』では趙雲は重厚にて精鋭を率いて猛将として勲功をあげたと称される。

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2008/04/14 [21:47:38] (Mon)


姓:魏
名:延
字:文長
生没年(?-234)
出身地:荊州義陽郡
親:
子:

部隊長として劉備の入蜀に随行し、手柄を立てて牙門将に任命された。劉備が漢中王となると成都に本拠を置いて統治を行った。漢中郡の押さえとして張飛を任用する意見があり、張飛もそのつもりでいたが、劉備は魏延を指名し、督漢中・鎮遠将軍に任命し漢中太守を兼任させた。群臣はこの抜擢に驚いた。そこで劉備は群臣の前で魏延に「今君に重責を担ってもらうが、君の考えを聞かせてもらおう」と言った。魏延は「曹操が天下の兵を率いて進軍してきたらこれを防ぐ所存。もし副将が十万の兵を率いて進軍してきたらこれを呑み込む所存。」と答えた。劉備は魏延を誉め、群臣は受け答えを見事だと思った。劉備が皇帝となると鎮北将軍となった。

227年、諸葛亮が漢中に駐屯すると魏延を改めて督前部に任命し、丞相司馬・涼州刺史を兼任させた。 230年、諸葛亮の命で呉懿を率いて羌中に侵入し、 郭淮費瑶を撃破した。前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に封ぜられた。 231年、司馬懿張[合β] を派遣して[示β]山を守る何平を攻撃させた。諸葛亮は魏延、高翔呉班 を何平の援護として派遣し、張[合β]を打ち破り、三千もの首級と多くの兵器を得た。

魏延は諸葛亮に従軍する度に、一万の別働隊を率いて夏侯楙が守る長安を急襲し、諸葛亮と潼関で合流する策を進言していたが諸葛亮はこの策を用いようとはしなかった。魏延は自分の策が用いられないことを不満に思い、諸葛亮を臆病だと非難した。

魏延は士卒をよく養成し、勇猛で誇り高い人物だったので同僚たちは彼を避け、へりくだって彼に接した。しかし楊儀だけは魏延に容赦せず、二人は犬猿の中であった。議論の最中に魏延は刀を抜いて楊儀に付きつけ、楊儀は頬に涙を流す、などといった有様であった。

234年秋、諸葛亮は病気となり楊儀、姜維費[ネ韋] らに自分が死んだ後の撤退策を3人に授けた。それは魏延を殿軍として敵を防がせ、姜維はその前を行き、魏延が撤退命令に従わない場合は彼を置いていく、というものであった。諸葛亮が死ぬと楊儀は費[ネ韋]を魏延に派遣して撤退を命じた。ところが魏延は「丞相が亡くなられても私は健在だ。諸軍を率いて賊を討つのが当然であり、一人の死によって天下の事を止めてはならない。それにこの魏延がなぜ楊儀の指図を受けねばならぬ?」と言って留まろうとした。費[ネ韋]は楊儀を説得すると言って魏延の元を脱出した。魏延は楊儀らが撤退を始めていることを知ると先に南へと向かい、行く先々でつり橋を破壊した。さらに使者を成都に送って楊儀の罪を訴えた。

成都では魏延と楊儀双方の使者が来たので劉禅 はどちらを信じればいいのかと群臣に質問した。 蒋[王宛]董允 も楊儀の肩を持ったので魏延の謀反とされた。

魏延は南谷口に陣を敷いて楊儀と対決した。しかし魏延の兵たちは非が魏延のほうにあることを知っていたので逃亡した。魏延は息子ら数名をつれて漢中に逃げたが楊儀は馬岱を派遣して魏延の首を斬らせた。

これより以前、魏延は頭に角が生える夢を見ていた。そこで夢占いをする趙直に意見を聞いたところ、「麒麟は角を持っているがこれを使わない。戦わずして勝てる吉祥です。」とごまかして答えた。魏延が去った後に「角という字は『刀』の下に『用いる』と書く。頭の上に刀を用いるのだから不吉極まりない。」と言ったという。

三国志の作者である陳寿は「魏延は楊儀を取り除こうとして兵を挙げたのであり、自分は諸葛亮に代わって蜀軍を率いる身であり、蜀に反逆するつもりは無かったのだ」とわざわざ魏延伝の末尾で説明している。 (蜀書・魏延伝)

2008/04/14 [21:46:46] (Mon)


姓:関
名:羽
字:雲長
生没年(?-219)
出身地:并州河東郡解県
親:
子:関興関索関平、娘(孫権の子との縁談あり)

元々の字は長生という。故郷から[シ豕]郡に出奔した。 劉備が[シ豕]郡で兵を集めると張飛 と共にその護衛官となった。劉備は平原国の相となると、張飛と共に関羽を別部司馬に任じ、それぞれ軍を率いさせた。劉備は関羽、張飛と同じ寝台に眠り、兄弟のような恩寵をかけたが、公の場では関羽と張飛は一日中劉備の側に立って警護し、奔走して苦労をいとわなかった。

劉備が徐州刺史の車胄 を殺害して徐州を乗っ取ると関羽に下[丕β]の守りを任せて太守の代行とし、自分は小沛に駐屯した。曹操の攻撃に遭うと劉備は袁紹 の元に逃亡し、関羽は捕虜となった。曹操は関羽を偏将軍に任命して礼遇した袁紹の部下の顔良が東郡太守の劉延 が守る白馬を包囲すると、張遼と関羽を先鋒としてこれに当たらせた。関羽は大将の旗と車蓋を見つけると真っ先に駆けつけて顔良の首級をあげた。白馬の包囲は解け、曹操は即刻上表して漢寿亭侯に関羽を封じた。

曹操は関羽の立派な人柄を尊敬していたが、彼が自分の元に長く留まる意志がないことを察して張遼に「個人的に彼を訪問して聞いてみてくれ」と言った。関羽は張遼に「曹公が私を厚遇してくれているのは良く知っています。しかし私は劉将軍から熱い恩義を受け、共に死のうと誓った中です。あの方を裏切ることは出来ません。私は絶対に留まりませんが、必ず手柄を立てて曹公に恩返ししてから去るつもりです。」と語った。関羽が顔良を討ち取ると曹操は関羽が去ると思って思い恩賞を関羽に施したが、関羽は贈り物に封印をし、手紙を残して劉備のいる袁紹の元に向かった。側近の家来が彼を追跡しようとすると曹操は「彼は彼なりに主君のためにしているのだから」といって追跡させなかった。

劉表が死去すると曹操は荊州を攻撃した。樊城にいた劉備は長江を渡って逃げる計画を立て、関羽には数百艘の船を率いて江陵で落ち合うよう命じた。結局漢津で長坂で敗退した劉備と落ち合った。そのまま夏口に到達して孫権と面会した。孫権は劉備に援軍を送り、曹操は撤退した。その後劉備は荊州の南部を手に入れ、関羽を襄陽太守、盪寇将軍に任命して荊州の守りにつかせた。関羽は江陵に駐屯した。212年、楽進と青泥にて対峙した。

馬超が降伏してきたと聞くと関羽は諸葛亮 に馬超の人物・才能は誰に匹敵するかと尋ねた。諸葛亮は関羽の負けず嫌いなところを知っていたので「文武の才を兼ね備え武勇は人並みはずれ、一代の傑物であり黥布や彭越のともがらである。張飛と先を争うべき人物だがひげ殿(関羽のこと)にはかなわない。」と答えた。関羽は大喜びして手紙を周囲に見せびらかしたという。

215年、呂蒙が長沙、零陵、桂陽の三郡を奪い取ると劉備は公安まで出陣し、関羽は益陽まで進軍し、魯粛と対峙した。魯粛は関羽に会見を求め、お互い兵馬を下げて両軍の首脳のみが集まって話し合いが持たれた。この結果湘水を境に荊州を分割し、東を呉に、西を蜀にそれぞれ割譲した。このとき曹操が張魯 を攻撃して漢中を手に入れたので蜀は呉と同盟を結ぶ必要があったのである。、

219年、劉備が漢中王となると関羽は前将軍に昇進し、荊州の軍権を一任された。 曹仁に篭る樊城を攻撃した。曹操は于禁を救援に派遣したが、秋に長雨があり漢水が氾濫して于禁の陣は全て水没した。于禁は関羽に降伏し、 [广龍]悳は斬られた。

関羽は四方に使者を送り、印綬や称号を与えて魏に叛くよう働きかけたため、中原は動揺した。曹操は都を許から移そうかと相談したが、 司馬懿蒋済は「孫権は関羽の勢力拡大を望まないだろうから、背後を突くよう勧め切り取った領地を与えれば良い。」と進言したのでその通りにした。

関羽は江夏郡に駐屯している呉の大将である呂蒙が病気でその任務から退き、無名の陸遜が後任となって関羽に親交の使者を送っていたので、呉方面の守りを薄くして魏攻撃に回していた。これより前、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽は使者を侮辱して断ったため孫権は関羽に腹を立てていた。また、南郡太守の麋芳と将軍の士仁 は公安に駐屯していたが、昔から関羽が自分たちを軽んじていると嫌っていた。彼らは軍事物資の供給を担当していたが本気で関羽を助けようとはしていなかったため、関羽は「帰還したらこいつらは始末しなくては」と言っていたことを聞くと恐怖を感じていた。孫権はこの二人に誘いをかけ、二人が孫権軍を迎え入れる頃には曹操は 徐晃を曹仁の援軍として送っていた。関羽と徐晃は昔からの敬愛の関係にあり、対陣するとはるか距離を置いて語り合った。世間話のみで軍事には触れなかった。しばらくして徐晃は馬を下りると命令を発し、「関雲長を討ち取った者には賞金千斤を与える」と言った。関羽は驚いて「大兄、何事だ」と言うと、「ただ国家のためなのだ」と徐晃は返答した。

関羽は敗退し、江陵も孫権によって占領されて妻子は捕虜となった。また荊州に侵攻した呂蒙の善政の噂が伝わり関羽の軍は四散した。呂蒙は朱然潘璋を差し向けて関羽を追わせた。関羽は麦城に篭り、さらに西へ落ちて章郷へと向かったが臨沮にて捕えられた。孫権は関羽を生かしておいて劉備や曹操の相手をさせたがったが、側近たちが「狼の子を養ってはいけません。曹操は彼を殺さなかったばかりに、遷都まで考える羽目になったのです。」と言ったため関羽親子を斬った。

孫権は関羽の首を曹操の元に送った。曹操は諸侯の礼をもってその屍骸を葬った。 260年、蜀は関羽に壮繆公という諡号(おくり名)を送った。

関羽は『春秋左氏伝』が好きで、そのほとんどを暗唱することができたという。

魏の程[日立]は関羽と張飛の二人を兵一万を相手に出来ると賞賛した。

関羽は呂布に仕えていた秦宜禄の妻である杜氏を自分の妻として娶りたいと曹操に申し出た。曹操はこれを許可したが、関羽が何度もこのことについて言うのでよほどの美人だと思い、呂布を捕らえると杜氏をも捕らえて自分の妾とした。関羽の心は落ち着かなかった。 (蜀書・関羽伝)

2008/04/14 [21:46:23] (Mon)


姓:陸
名:遜
字:伯言
生没年(183-245)
出身地:揚州呉郡呉県
親:陸駿
子:陸延、陸抗

元の名を陸議という。陸瑁の兄。陸氏は江東の地の大豪族であった。幼い頃に父を失い、父のいとこであった陸康の元に身を寄せた。しかし陸康と袁術の仲が悪くなると、陸康は陸遜ら一族を呉の地へ返した。陸康の息子である陸績が幼かったため、陸遜が一族をまとめた。21歳で孫権に仕え、最初は官僚として、後に海昌県(呉郡)の屯田都尉となってその地の統治に参与した。毎年のように干ばつが続いたが、陸遜は穀物を民に支給し、農業や養蚕を振興してなんとか県民の飢えをしのがせた。志願兵を集めて山越の不服従民の長であった潘臨、尤突、費桟などを討伐して住民を降伏させ、軍隊を増強した。陸遜の部曲(私兵)は2000人を超えていたという。孫権は孫策の娘を陸遜の妻に迎えさせ、陸遜に当時の政治的な課題について盛んに意見を求めた。

会稽太守の淳于式は陸遜が不法に私兵を集め、民衆がそれに反抗して騒いでいると孫権に通報したが、陸遜は淳于式が立派な役人であると彼のことを誉めた。孫権が告げ口を聞いている者をなぜ誉めるのかと問うと、陸遜は「淳于式は民衆のことを思いやってこのことを言っている。私がこれに反論したら泥仕合になって建設的ではなく、どこかで断ち切らないといけない。」と答えた。孫権は陸遜を立派な人格者だと誉めた。

呂蒙が病気を理由に関羽 の押さえとしての任務から建業に戻ると、途中で陸遜は呂蒙と面会した。陸遜は呂蒙に「関羽は向こう気が強く、他人を見下す傾向があります。手柄を立てたので舞い上がっており、北に進むことしか考えていません。あなたが病気と知ればますます油断するので、我々は簡単に荊州を奪うことができるでしょう。」と述べた。呂蒙は建業に戻ると孫権に陸遜を自分の後任として「有能な上に無名なので関羽の油断を誘える」と推薦した。陸遜は偏将軍として着任すると関羽にへりくだった手紙を送り、関羽のことを褒め称えた。関羽はますます油断した。

孫権は呂蒙と陸遜に兵を与えて荊州を侵攻させ、南郡、公安を手に入れると、呂蒙は荊州北部に向かい関羽を討ち取る手柄を立てた。陸遜は夷陵、宜都を落とし、さらには李異謝旌 を率いて蜀勢力の地方長官、豪族、異民族を平定した。この手柄で陸遜は上将軍に昇進し、茂才に推挙された。さらに陸遜は孫権に意見して荊州の人材を多く呉に推薦した。

222年、劉備は蜀の大軍を率いて夷陵に攻め寄せた。孫権は陸遜に 朱然潘璋宋謙韓当徐盛鮮于丹らと5万の兵を与えてこれを防がせた。 劉備は砦を何百里にも連ねて守りを固め、 呉班に数千の兵を与えて呉軍を攻撃する構えを見せた。諸将は攻撃を主張したが陸遜は呉班がおとりであることを見抜き、軍を待機させた。部将達は陸遜が臆病であると批判したが陸遜は軍を動かさなかった。諸将たちは呉の古参の武将達であり、陸遜に指図されることをここよろく思わず、勝手な行動を取っていた。陸遜は剣を手に掲げ、「将軍らは劉備という強敵を前に意地の張り合いを繰り広げているが言語道断だ。私は一介の書生であるが主君から命を受けて軍を率いている。それについて文句を言っていいものか?軍令は断固として守られねばならない。」と諸将に命じた。

陸遜は孫権に手紙を送り、「劉備は水陸の両面作戦を取らず、陸地に集中してきました。これなら心配は要りません。」と述べた。諸将は「劉備を攻撃するなら準備の整わない侵攻当初に行うべきであった。今では攻撃しても歯が立たないでしょう。」と言った。陸遜はこれに反論して「劉備は歴戦の武将で、開戦当初は慎重に計略を立てていたが、今では油断している。今こそ良い機会なのだ。」と言って、蜀軍に攻撃をかけた。しかし敗退したので諸将の不信感はますます高まった。陸遜は「これで蜀軍を破る方法がわかった。」と言って兵士たちに茅の束を持たせ、火攻めをかけた。蜀軍は大混乱の中、総崩れとなり、鎧や輜重を道に積んで火をかけ、やっとのことで退却した。 張南馮習沙摩柯ら蜀将を討ち取り、杜路、劉寧らを降伏させた。劉備は命からがら白帝城に戻り、「陸遜などにやられてしまったのも天命か」と嘆いた。

これより前、孫桓は別働隊を率いて蜀軍を攻めていたが、逆に蜀軍に包囲されて救援を陸遜に求めてきた。陸遜は「孫桓どのは充分な食料で堅城に立てこもり、部下の心をきっちりつかんでいるので守りきれる。私の計略が実行されれば孫桓どのは自ら包囲を切り開くことができるだろう。」として援軍を送らなかった。後に孫桓は「最初は実はあなたを恨みましたが、今になってあなたの見通しが正しかったのだと分かりました。」と陸遜に言った。この功績で、江陵侯に封じられ、荊州牧に任命された。徐盛らは劉備にとどめを刺すよう軍を動かすことを孫権に進言したが、陸遜は曹丕が呉と協力して劉備を討つと称しながら、内心では呉を狙っていることに気づいていたため、出兵をやめるよう進言した。

228年、孫権は[番β]陽太守の周魴に命じて、魏に偽の投降を行って、 曹休の軍をおびき出すよう命じた。曹休は計にかかって魏に出兵した。陸遜は朱桓全琮 と大軍を率いて曹休を打ち破った。曹休は憤慨のあまり、背中に腫れ物ができて病死した。

陸遜は中央から離れていてもいつも国家のことを考え、孫権に手紙を送っていた。孫権が軍兵の補充のために夷州(台湾)と朱崖郡(海南島)への遠征を計画したときにはこれに反対した。結局遠征を行って得たものは失ったものより少なかった。孫権が遼東の公孫淵に叛かれ、呉からの使者が斬首されて魏に送られると、孫権は公孫淵の討伐を考えた。陸遜は孫権を諌めて、この計画を取り止めさせた。

231年には廬江に侵攻したが、満寵が大軍を率いて向かうと、戦わずに撤退した。

234年、孫権は諸葛亮の北伐に同期して自ら合肥を攻撃し、陸遜と諸葛瑾は襄陽を攻撃した。孫権への使者が魏軍に捕らえられ、呉軍の内情は魏軍の知るところとなった。諸葛瑾は陸遜に早期撤退を求めたが、陸遜は答えず、ゆったりと部下と囲碁などをしながら過ごした。陸遜は魏軍が要害の地を固め、呉軍の撤退が困難であることを、部下に悟られないためにのんびりと過ごしながら、諸葛瑾と退却策を練った。そして陸遜が襄陽に総攻撃をかける間に諸葛瑾が退却用の船を準備し、見事退却戦を演じた。帰り際に江夏の魏勢力を攻撃し、郡民を捕らえて帰還した。

このころ呉の宮廷では呂壱が権力を古い、思うがままに人に懲罰や褒美を与えていた。陸遜は潘濬と共に涙するほどこのことを憂いていた。孫権は後に呂壱を誅殺して、呂壱を信任したことを悔いた。

244年、顧雍の後任として丞相に任命された。このころ皇太子の孫和と魯王の孫覇の後継争いは、呉を二分する騒ぎとなっており、豪族の子弟達はどちらかの皇子の役所に出入りしていた。全琮がこのことを陸遜に伝えると、陸遜は「有能であれば任用されないことはないのだから、公的な任官を受けないのに役所に出入りするのは災いを招く。」と意見をした。全琮の息子は魯王に取り入って皇太子側と対立していた。陸遜は全琮に「家を危なくする。」と忠告したが、全琮はこれを受け入れないばかりか、陸遜と対立するようになってしまった。孫和を廃して孫覇を皇太子にすべきだという論調が強くなると、陸遜は「皇太子という地位は磐石であるべき」と孫権に諌言した。しかし孫権は陸遜の甥にあたる顧譚らが皇太子の一派である、という言いがかりをつけられて、陸遜を流罪にした。太子太傅(皇太子の守役)だった吾粲は陸遜と手紙のやり取りとしていたため、死刑となった。その後も孫権は陸遜に詰問の使者を何度も送ったため、陸遜は憤りのあまりに病気になって死亡した。 (呉書・陸遜伝)

2008/04/14 [21:45:57] (Mon)


姓:馬
名:超
字:孟起
生没年(175-222)
出身地:雍州扶風郡茂陵県
親:馬騰
妻:楊氏(正室)、董氏(妾)
子:馬秋、馬承、娘(劉理の妻)

馬騰の息子。曹操は丞相となると馬超を招聘したが、これには応じなかった。父の馬騰が司隷校尉の鍾ヨウに従うと、馬超は督軍従事として韓遂ら一万の兵を率いて従軍し、 袁尚配下で平陽を占拠していた郭援 を討伐した。渡河して攻め寄せる郭援を迎え撃ち、部下の[广龍]徳 が郭援を討ち取った。後に馬騰が朝廷に仕えると偏将軍に任命され、都亭侯に封ぜられ、父親の軍を引き継いだ。

211年、曹操は鍾ヨウに張魯の討伐を命じた。馬超・韓遂や他の関中の軍閥はこの遠征に疑念を抱き共に曹操に対して反乱を起こし、潼関に攻め寄せた。関所を挟んで両群は対峙した。曹操が渡河を試みると馬超は渡りきらないうちに岸辺の船団に激しい攻撃を加えた。曹操軍の校尉の丁斐 が牛馬を解き放つと馬超軍の兵士はこれらを略奪するために隊列を乱した。曹操は許[ネ'者]により船に収容され、からくも逃げ延びた。曹操軍が桶道(木の壁で覆った通路)を築いて陣を張ると渭口に馬超らは退却した。曹操軍が渭水を渡って陣を築こうとしているのを見て、馬超軍は襲い掛かるが伏兵の罠にかかって大敗した。そこで講和を申し出た。韓遂の要請により曹操は韓遂・馬超と駒を並べて会談した。このとき馬超は自らの武勇を頼んで曹操を討ち取ろうとしたが、後ろで許[ネ'者]が睨みつけており、実行に移せなかった。曹操は賈[言羽]の計略を用いて馬超と韓遂の仲を裂いたため、お互い猜疑心を抱くようになり、そこをつかれて連合軍は敗退した。

馬超は逃亡し、西方の羌族を従えて隴上の諸城を攻撃し、張魯から援軍として楊昂の派遣を受け、涼州刺史の韋康が篭る冀城を包囲した。 楊阜を中心とした冀城の抵抗を抑え、援軍を求める使者の閻温を殺害すると、冀城は降伏した。韋康を楊昂に命じて殺害させた。韋康の救援にきていた 夏侯淵を破り、興国[氏一]の千万、阿貴なども味方にして駐屯した。征西将軍・涼州諸軍事を自称し、并州牧を兼任した。

韋康の部下であった楊阜、梁寛姜叙 らは共謀して馬超にそむいた。 214年、馬超は姜叙・楊阜を攻撃するために鹵城に向かったがこれを落とせず、留守中に冀城で梁寛らが蜂起して馬超の家族を殺害したため、進退窮まって張魯に身を寄せた。

張魯は馬超を歓迎して都講祭酒に任命し、娘をめとらせようとした。しかし別の者が張魯を諌めたため実現しなかった。張魯に兵を借りて再び北征して趙昂王異 夫妻の篭る[示β]山を包囲した。これが落とせないうちに張[合β]が援軍として来襲したため、羌族や[氏一]族の兵数千を率いて渭水のほとりでと対峙したが交戦せずに退却した。

劉備劉璋 の拠る成都を包囲すると、張魯のことが取るに足らないと内心思っていた馬超は密書を送り、劉備の元へ出奔した。(別説には劉備が李恢 を派遣して劉備軍に参加するよう説得した) 馬超が劉備に付いたと聞くと、成都の人間は恐れおののき劉備に降伏した。劉備は馬超を平西将軍に任命し、臨沮を守らせた。

217年、張飛呉蘭 らと共に下弁郡に侵入した。しかし翌年曹洪の攻撃を受け、 [氏一]族の強端の裏切りにより呉蘭が戦死したため退却した。

劉備が漢中王になると左将軍に、221年には驃騎将軍に昇進し、涼州牧を兼任した。 222年、47歳で死去し、後年威侯と送り名された。死に臨んで馬超は劉備に「私の一門二百人余りは曹操によりほとんど根絶やしにされましたが、従弟の馬岱だけが残っております。家の祭祀を継ぐ者として陛下にお托ししたいとおもいます。他に望むことは何もありません。」と上奏した。 (蜀書・馬超伝)

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