姓:魏
名:延
字:文長
生没年(?-234)
出身地:荊州義陽郡
親:
子:
部隊長として劉備の入蜀に随行し、手柄を立てて牙門将に任命された。劉備が漢中王となると成都に本拠を置いて統治を行った。漢中郡の押さえとして張飛を任用する意見があり、張飛もそのつもりでいたが、劉備は魏延を指名し、督漢中・鎮遠将軍に任命し漢中太守を兼任させた。群臣はこの抜擢に驚いた。そこで劉備は群臣の前で魏延に「今君に重責を担ってもらうが、君の考えを聞かせてもらおう」と言った。魏延は「曹操が天下の兵を率いて進軍してきたらこれを防ぐ所存。もし副将が十万の兵を率いて進軍してきたらこれを呑み込む所存。」と答えた。劉備は魏延を誉め、群臣は受け答えを見事だと思った。劉備が皇帝となると鎮北将軍となった。
227年、諸葛亮が漢中に駐屯すると魏延を改めて督前部に任命し、丞相司馬・涼州刺史を兼任させた。 230年、諸葛亮の命で呉懿を率いて羌中に侵入し、 郭淮、費瑶を撃破した。前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に封ぜられた。 231年、司馬懿は張[合β] を派遣して[示β]山を守る何平を攻撃させた。諸葛亮は魏延、高翔、呉班 を何平の援護として派遣し、張[合β]を打ち破り、三千もの首級と多くの兵器を得た。
魏延は諸葛亮に従軍する度に、一万の別働隊を率いて夏侯楙が守る長安を急襲し、諸葛亮と潼関で合流する策を進言していたが諸葛亮はこの策を用いようとはしなかった。魏延は自分の策が用いられないことを不満に思い、諸葛亮を臆病だと非難した。
魏延は士卒をよく養成し、勇猛で誇り高い人物だったので同僚たちは彼を避け、へりくだって彼に接した。しかし楊儀だけは魏延に容赦せず、二人は犬猿の中であった。議論の最中に魏延は刀を抜いて楊儀に付きつけ、楊儀は頬に涙を流す、などといった有様であった。
234年秋、諸葛亮は病気となり楊儀、姜維、費[ネ韋] らに自分が死んだ後の撤退策を3人に授けた。それは魏延を殿軍として敵を防がせ、姜維はその前を行き、魏延が撤退命令に従わない場合は彼を置いていく、というものであった。諸葛亮が死ぬと楊儀は費[ネ韋]を魏延に派遣して撤退を命じた。ところが魏延は「丞相が亡くなられても私は健在だ。諸軍を率いて賊を討つのが当然であり、一人の死によって天下の事を止めてはならない。それにこの魏延がなぜ楊儀の指図を受けねばならぬ?」と言って留まろうとした。費[ネ韋]は楊儀を説得すると言って魏延の元を脱出した。魏延は楊儀らが撤退を始めていることを知ると先に南へと向かい、行く先々でつり橋を破壊した。さらに使者を成都に送って楊儀の罪を訴えた。
成都では魏延と楊儀双方の使者が来たので劉禅 はどちらを信じればいいのかと群臣に質問した。 蒋[王宛]も董允 も楊儀の肩を持ったので魏延の謀反とされた。
魏延は南谷口に陣を敷いて楊儀と対決した。しかし魏延の兵たちは非が魏延のほうにあることを知っていたので逃亡した。魏延は息子ら数名をつれて漢中に逃げたが楊儀は馬岱を派遣して魏延の首を斬らせた。
これより以前、魏延は頭に角が生える夢を見ていた。そこで夢占いをする趙直に意見を聞いたところ、「麒麟は角を持っているがこれを使わない。戦わずして勝てる吉祥です。」とごまかして答えた。魏延が去った後に「角という字は『刀』の下に『用いる』と書く。頭の上に刀を用いるのだから不吉極まりない。」と言ったという。
三国志の作者である陳寿は「魏延は楊儀を取り除こうとして兵を挙げたのであり、自分は諸葛亮に代わって蜀軍を率いる身であり、蜀に反逆するつもりは無かったのだ」とわざわざ魏延伝の末尾で説明している。 (蜀書・魏延伝)